「豪快な人」は自分が豪快な人だと思っているか?

Summary

このコラム『PRは、Passion Relationsに』では、Pomaloのクリエイティブディレクターである引地海が、自身の経験をもとに解釈したコミュニケーションの本質や考え方、関係づくりのアイデア、そしてそれらの着火点になる「情熱」について論じていきます。実体験による独断と偏見、さらに歪んだ自意識をベースに好き勝手に書きますので、変わり者の偏った意見だと思って、ご笑覧いただければ幸いです。

学生時代に演劇で学んだ「主観」と「客観」

僕は大学時代、演劇にハマっていました。一年生の頃は役者をやっていましたが、半年後には演じる方よりも演出する方に興味を持っていました。役者は舞台で誰かの人生を生きる。一方、演出家はその役者たちを観客の視点で捉え、劇全体の「見せ方」を考える。体で感じたままに動き、表現するよりも、頭の中でとことん考え抜く方が、僕には合っていました。そう思うきっかけとなったエピソードをひとつ紹介します。

役者をやっていた頃、自分に割り振られた役を「とりあえず、豪快な人でやってみて」と演出家に言われました。豪快な人で思いつくのは、声が大きく、態度も仕草も大ぶりで、ふんぞり返って、とにかく偉そうな感じ。思い付く限りのことをやってみたんですが、演出家から「薄っぺらい」と一蹴されました。

その時もらったダメ出し(アドバイス)が「豪快な人は自分が豪快だと思っているか?」でした。答えは、多分、思っていない。「豪快な人」はあくまで客観的な印象であって、主観的な価値観ではない。豪快な人っぽくあろうとしていた時点で僕は豪快な人ではなく、豪快なふりをしている人だったのです。

役作りは核作り

ではなぜ「豪快な人」は「豪快な人」に見えるのか?大きい声や態度などは、表層的な要因のひとつだと思いますが、もっと奥深いところから滲み出る「豪快な人らしさ」があるはず。それはその人物が、どのような環境で育ち、どのような価値観を持って生きているか、がヒントになります。それを探求していくこと、これがいわゆる「役作り」。その人物の人生を紐解き、その中で育まれた「価値観=核」を見つけだす作業です。

豪快な人→声も態度も大きい→自分に自信がある→これまで一度も怒られたことがない→大金持ちの一人息子→やりたいことや欲しいものはなんでも手に入る→それが当たり前だった、などなど。なぜ?なぜ?を追求し続けた結果、僕が行き着いた”豪快な人”の核は「地球は自分を中心に回っている(と思っている)」でした。

伝えたいことと、伝わることは、違う

後日、その核を持ってもう一度舞台に立ったところ「よくなったね」と褒められました。でも次の瞬間「じゃあ次は、ひ弱な人やってー」と。あーこりゃ無理だー、と(笑)。多分、役者さんたちはその切り替えを無意識にやできるのだと思うのですが、僕の場合はちょっと時間がかかる。というよりも、演じること以上に、どう見えるかを考え、それを設計し演出していく方に楽しさを見出してしまったんです。

と、前置きが長くなってしまいましたが、要するにコミュニケーションにおいて、主観と客観の溝は想像以上に大きい、ということ。自分たちがこうありたい、こう思われたい、と思っていることと、実際に相手が思っていることは乖離している場合が多いです。伝えたいことと伝わることは違う。伝わることがゴールなのであれば、そのための伝え方があるのです。

観客=ユーザーは素人ではなく、玄人な時代

オウンドメディアの仕事をしていて、よくある要望が、「◯◯っぽくしてください」と。はい、◯◯っぽくするのは簡単です。でも肝心なのは、◯◯っぽさの核は何か。それをちゃんと掴むこと。そうしないと、うわべだけのごまかしでは、すぐ化けの皮が剥がれてしまいます。ましてや昨今のユーザーは、相当目が肥えていらっしゃる。つい20年前に比べれば、世の中の人の動画や画像リテラシーは圧倒的に高くなっています。言ってしまえば、観客も玄人。上っ面のメッキは、すぐに見透かされてしまいます。(ただ、「メッキ剥がれても大丈夫です!1ヶ月持てば」みたいなことも言われちゃうのが、ちょっと悩みどころなのですが・・・)

さて次回は実際に主観と客観、伝えたいことと伝わることのギャップを埋める、そのバランスを取り入れるとは具体的にどういうことか。今回の続きのようなお話をしたいと思います。

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