コンテンツ定量化への道 ~「お笑い」の考察~

Summary

前章(/findings/-ai/)で、コンテンツをハイレベルコンテンツとローレベルコンテンツの2つに分類しました。

① ローレベルコンテンツ(短期の視点で行動を促すことが目的)
ハイレベルコンテンツ(長期の視点で心理変容を生み出すことが目的)

ここでは、ハイレベルコンテンツについて3歩ほど掘り下げたいと思います。

「お笑い」というハイレベルコンテンツ

ハイレベルのコンテンツは、「長期の視点での心理変容を生み出すことが目的」と述べましたが、

ビジネス的な視点を加味しなければ、複数の目的もしくは複数の目的(説明変数)を包含した抽象的な目的をもっている、と言い換えることもできそうです。

この目的は、いわゆるMECEな分解が困難であることが特徴です。

ハイレベルコンテンツとして高度に発展している分野に「お笑い」があります。

「お笑い」は、「笑わせる」という抽象的な目的を持っていますが、そこには「共感」「驚き」など大量の説明変数が存在していますが、「笑い = 2*共感 + 3*驚き + ・・・」のように因数分解することができません。「お笑い」には漫才・コント・様々な方法があり、かつその中にもさらに様々なスタイルが存在しており、「正解」がありません。

「お笑い」というハイレベルコンテンツを定量化するということを考えていみます。

そもそも定量化をする目的は、要因を明確にして再現性を持たせることです。

「お笑い」の最高峰であるM1(の中でも評判が良かった年の)2019年を漫才をデータ化した猛者がいたので、考察のためお借りします(https://note.com/kfujita/n/na83a2d254c6f)。

これは果たして「笑い」として再現性のあるデータと言えるでしょうか?

ボケ数N・ツッコミ数Mの漫才であれば、高い点数が取れる、のように定式化できるでしょうか?

ここでは、抽象的に丸めた「総合点」の方が再現性として筋が良さそうです。

ここでは、さらにデータを見る人のリテラシー、という問題も発生し得ることがわかります。

M1決勝進出者の点数一覧を見た時に、データに関する知見ではなくお笑いに関する知見を高度に持った者であれば、再現性を持って「ウケる漫才の傾向」などを炙り出すことができるかもしれません。

ハイレベルなコンテンツにおいては、分析の際にリテラシー、つまりデータの解釈としての「コモンセンス」をいかに分析の枠組みに取り込めるかどうかも重要な視点といえます。

「お笑い」に再現性はあるか?

さて、「お笑い」という切り口におけるコンテンツの再現性について深掘りしてみます。

「HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」に、「古賀」というコントがあります。(参考:https://coconutsjapan.com/entertainment/post-67663/67663/

「古賀」は、スカイダイビングに出かけた男4人を描いたコントです。一人一人が空を飛んだ後、板尾創路さん演じる古賀だけがいなくなってしまいます。

最悪の事態も想定し、心配になった他の3人が古賀の家に行ってみると、すでに古賀は家に帰っていたというストーリーになっています。先に帰った古賀は、「スカイダイビング後に集まろうという話をしていなかったから帰った」と主張し、悪びれることをしません。

古賀と他の3人との感情のすれ違い、それでも古賀の中には古賀の論理が存在している、、、見ていてなんとも言えない感情が生まれます。

「古賀」というコンテンツは体験して初めて生まれる感情が面白さのコアにあります。

そしてこの読後感は、「映像を見る」以外の体験では得ることができません。ここでいかに雄弁にストーリーを語っても、映像を見ない限りはその感情がわからないのです。言語化できない体験であるからこそコンテンツ(映像)として表現されているのです。

言語化できないものを、定量的に再現性を持って解釈することができるのでしょうか?

同時に、「古賀」というコンテンツは、因数を分解した途端に面白さが失われることは明らかで、「世界は分けてもわからない」ことを考えさせられます。

note も書いているので、ご愛顧いただけると幸いです。

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