Summary
さて、ここまで、実体とクオリアに間に横たわる大きな乖離、そしてそれに人類がいかに向き合ってきたかについて述べてきた。
ここで、少し話の範囲を狭めたい。
私が探究したいのは、現代における「クリエイティブ」と「データサイエンス」の関係性である。
前者はクオリアを重視し、後者は実体を重視することでその価値を示してきた。
クオリアは、データによって捉えられるのであろうか。
私の中での一つの解は、データを、クオリアをもたらすことのできる「解釈性を持ったデータ」として提示することである。
この説明のため、おそらく最も理論と感性の融合が議論されてきた分野であろう、「建築」に一度焦点を当てたい。
建築の世界では、20世紀初頭のモダニズム建築が、機能性と感性の融合という新たな地平を開いた。
この動きの中心人物の一人がル・コルビュジエである。彼の提唱した「近代建築の五原則」は、建築設計における新しい標準を示し、その後の建築の流れに大きな影響を与えた。
これらの原則は、ピロティ(支柱)、屋上庭園、自由な平面設計、水平連続窓、自由な立面から成立するが、それぞれは建築の求める機能的な要求を満たしながらも、美的感覚も同時に提供することに重点を置いている。
例えば、ピロティは、建物を地面から解放し、機能的なスペースを提供すると同時に、スタイリッシュで開放的なデザインの感覚を満たしている。
コルビュジエはこの「原則」というレベルの抽象化を通じて、実体とクオリア、客観と主観の両方に再現性をもたらしたのだ。
さて、データサイエンスの視点からは、「自由な平面」などの原則は、定量化や点数化をすることで再現性・普遍性をさらに高めることができるのではないか、と疑問が生じる。
コルビュジエの原則の真の偉大さは、実体とクオリアに焦点を当て、解釈性と再現性(Interpretability and Reproducibility)を兼ね備えている点にある。
実体は分節化・データ化が可能である(アヤメのデータセットの例を思い出して欲しい)一方で、クオリアは離散的で、主観的な体験に依存する為、定量化が難しい。
そこで、実体という制限の中で、建築家がクオリアを自由に探求できる「余白」が必要となる。
建築家は原則に沿った実体(= 建築物)を作り、体験の試行錯誤(スタディ)を通して原則の中で美しさ(クオリア)を探求する。
解釈性は広げすぎると再現性が損なわれる。
しかし、再現性がないのであれば「原則」が存在する意味がない。
コルビュジエの「原則」は、この「再現性」と「解釈性」が絶妙なバランスで両立していたからこそ、広く普及したのではないか、と私は考えている。
「原則」や「ガイドライン」、「方法論」といったもののうち、広く受け入れられているものは全て、「再現性」と「解釈性」のバランスが成立しているように思う。
ここで、再現性について議論を深めたい。
コルビュジエのおよそ50年後に生まれたクリストファー・アレグザンダーという建築家は、より再現性のある原則を目指し、「パターンランゲージ」という概念を生み出した。 アレグザンダーは、建築や都市設計を一連のパターン、つまり繰り返し出現するデザインの問題と解決策の組み合わせとして捉えた。
これは近代工学の基礎を成す、分解と統合というアプローチと同等である。
大問題は小問題に、小問題はさらに最小問題に分解することができ、最小問題の解決によって大問題の解決を目指すというアプローチである。
アレグザンダーは非常に工学的な方法論を提案しながらも、彼の目指したのは機械のような建築にあったのではなく、「土着的で無名的で、素朴で味わいのある、時代を超越した価値を持つ」という主観的体験を伴う建築の姿であった。
しかし、彼のアプローチにはいくつかの問題点があり、最も重大な点は、小問題からいかに建築全体のデザイン(形)を導くかは示されていないことである。
工学的なアプローチを突き詰めたアレグザンダーは後年、以下のように語った。
「花は花びらからつくられるのではありません。花びらは花における位置とその役割によってつくり出されているのです。 「部分」は「全体」 により導かれ、「全体」からつくり出される 「全体」が「部分」からつくり出されるのではありません。・・・「秩序」の根本的な要素としてこれらの実体を明確に捉えようとした私の試みは容易にうまくいきませんでした。・・・実体として現れた事物は不安定で、固定されたものではなく、明確な境界もなく、実のところ 「事物」では全然ない、という事実が強調されることとなった。」
彼は実践的なプロジェクトを通して、個々の機能の探求だけでは建築全体としての体験に到達できないことに気がついていたのだ。
「花」の美しさは、花を「花びら」「がく」「茎」・・に分解し、個々を分析しても「分からない」。
実体を分解すると、クオリアが壊れてしまう。
実体とクオリアのバランス、そして解釈性と再現性のバランスを両立するという意味で、アレグザンダーの「パターンランゲージ」よりも、コルビュジエの「原則」の方が優れた抽象化ではないだろうか。
アレグザンダーは後年、「全体性」という言葉をしきりに使用しているが、これは「分けられる」実体から「分けられない」クオリアへ、客観と主観への思考転回と見ることができる。
体験・クオリアの「分けられなさ」、つまり、分節化・データ化の難しさ。これがクリエイティブとデータサイエンスの溝の本質である。
データサイエンスは、その核心において、世界を分解・分節化によって定量化し理解しようとする試みである。
しかし、世界の分解・分節化は行き過ぎるとその本質が失われてしまう。
しかし、分けないことには「分からない」。
クリエイティブをいかにデータ化するかではなく、いかにデータ化しないかというバランス感覚。実体はデータに、クオリアは人間に。
世界が壊れない、絶妙な、「再現性」と「解釈性」の均衡を模索する必要がある。
測定可能なデータを収集し、分析することで、パターンを発見し、予測を立てる。
このアプローチは、多くの分野で有効であり、科学的知見の拡大に不可欠である。
しかし、データサイエンスのこの側面は、同時にその限界でもある。
数値化できない人間の経験や感覚、すなわち「クオリア」であり、世界そのものは、しばしばデータ分析の枠組み外に残される。
観測可能な箱庭の中に現実を見出すことは理想でもあるが、同時に幻想でもある。
「大切なものは、目に見えない (Le plus important est invisible)」-- サン=テグジュペリ