Summary
ここまでの議論をわかりやすくするため、データサイエンスおよびクリエイティブの立場・志向についてまとめる。
データサイエンスについて。
データサイエンスにおいて、主観的な体験(クオリア)、例えば、「美味しさ」「良い音楽」「モテる」といった概念は、連続的な実体と離散的なクオリアという関係性の中で議論されるべきである。
ところが、データサイエンスにおいては、しばしば主観的な要素は見過ごされがちである。これは、主観的な感覚が個人差が大きく、データ化が困難であることや、(脳反応)モデルが非線形になることに起因する。
クリエイティブについて。
クリエイティブの制作では、具体的な実体を作ることに加えて、良い体験(クオリア)を担保する必要がある。
良いクリエイティブは良いクオリアを提供することであり、この感度こそがクリエイターの「センス」である。
主観的な体験を伴わないものはクリエイターによって制作される必要がない。AIに任せておけば良い。体験を提供するからこそ「形」が存在する意義があり、文字やグラフ、数値で伝えることができるのであれば、それを媒介して伝えれば良い。
ここまで実体とクオリア、データとクリエイティブについて検討してきたが、
データサイエンスによるクリエイティブへの貢献は、究極的には「コード(利用可能な「原則」や「ガイドライン」、「方法論」)を作る」ことと言えるのではないだろうか。 そして、このコードは「再現性」がありつつも、主観的な体験を担保するため、「解釈性」を両立させることが肝要となる。
実体は分節化・データ化が可能である(アヤメのデータセットの例を思い出して欲しい)一方で、クオリアは離散的で、主観的な体験に依存する為、定量化が難しい。
そこで、実体という制限の中で、建築家がクオリアを自由に探求できる「余白」が必要となる。
建築家は原則に沿った実体(= 建築物)を作り、体験の試行錯誤(スタディ)を通して原則の中で美しさ(クオリア)を探求する。
コルビュジエの原則のようなコードは一つの理想ではある。
しかし、どのように分節化するかすることが正しいのか、どのようなクリエイティブを目指しているのか、などを踏まえたとき、そのコードのあり方は多様に考えられる。
MAZDAが各工場に配備している「御神体」は、デザイン哲学をコードに落とし込んだ面白い例である。
広島市 マツダ本社工場(広島市、広島県府中町)の一角にあるショーケースの中に、先端がとがっていて、シャープな印象を与える鉄の塊がある。
一見しただけでは、何の形かわかる人は少ないかもしれない。これこそがマツダのデザインのご神体だ。
表現されているのは、チーターが動き出す瞬間。「野生動物が見せるしなやかで美しい動きの一瞬を切り取り、車のデザインに表現したいと考えた」(デザインの担当者)という。
MAZDAの「御神体」は、単なる金型を超えた存在である。
実体化されたデザイン哲学は、言葉だけでは伝えきれない生命感や流れる連続性を表現している。
MAZDAの車体デザインは、創造性の源泉となる御神体の制作からプロセスが始まるという。イメージの共有から始まり、御神体の制作を経て、最終的にはデザイナーのスケッチへと発展する。この独自の工程により、MAZDAの車体デザインには一貫したデザイン哲学が息づく。
MAZDAの「御神体」は、コルビュジエやアレクサンダーが文章(文字)で行ったコード化とは異なり、具体的な物体として提示することで、より高次元の情報を伝えることを可能としている。
物質でありながら「再現性」と「解釈性」を兼ね備える「御神体」は、「体験のコード化」の新たな可能性を示している。
以上のような観点を持って実行されるデータサイエンスは、非常に「ウェット」なものとなる。
人間との関わりの中ではじめてデータのあり方が定義される。
データによって現実を「箱庭化」するのではなく、現実はあくまでデータを基にしつつも、人間が「感じる」べきである。
ここからは、(Web)コンテンツという舞台において、私が発見・定義した分析原則について述べていく。
この原則は、ウェットなデータサイエンスという哲学に基づいている。
ここで、コンテンツとは、Web上に展開されるマルチメディアで表現される情報で、「より深い情報や物語を提供し、長期的な心理変容に焦点が当てられている」ものであるとしている。
コンテンツは心に働きかける。
実体と、主観的な体験(クオリア)、「分ける」と「分けない」、「再現性」と「解釈性」。この調和に挑んだ私の戦いの記録でもある。